ある書店員の一日 その三

 37歳のフリーターは、実際、かなり使える奴だった。

 僕の勤める書店のレジは2台に分かれていて、その分、他の小売業のレジよりも複雑なのだが、彼(以下『T』とする)は3日でレジまわりの仕事をほとんど覚えてしまったし、朝の新刊の開梱と陳列の作業も、先週の新刊を本棚から外して担当者別のラックに入れることを1週間でほとんど間違いなく出来るようになった。どのジャンルが誰の担当なのかを覚えていないと出来ないことだ。22万冊ある、この書店の蔵書数を単純に2で割っても、11万タイトルの本がある。もちろんその11万タイトルはジャンル分けされている本棚に入るが、そのジャンルだけでも50以上はあるのだから、容易ではない。

 Tがレジに立っているとき、「助かるよ」と僕は言った。Tは、ちらりとこっちを向いて、「いえ、まだまだご迷惑をおかけします」と答え、レジでの接客の手を止めなかった。それを陰で見ていた店長から僕は呼び出され、バックヤードに連れて行かれ、「Tをおだてるのもほどほどにしときなさいよ。『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだ』くらい思わせておかないと、手を抜き始めるんだから。アルバイトなんて」

 そう言うと店長は、他の社員やパートさんより1時間長い、2時間の休憩を取りに出て行った。僕は小さく頭を振って、ため息を吐きながら、蛍光灯から吊るされている紐を引っ張って電気を消した。店長の机の上のパソコンの白い明かりだけが光源となって、薄暗く辺りを照らしていた。

 

 僕の勤めている書店は、デパートの中に入っている。

 だからと言って売り上げが良いわけではなく、逆にここ数年、赤字を垂れ流し続けている。一般にデパートと聞けば、上品な客ばかりが来るイメージがあるが、それは真逆で、「お客様は神様である」という言葉の意味をはき違え、店員をまるで召使いか奴隷のように扱う高齢者が多い。1日に2回か3回は、必ずレジで大声で怒鳴りつける高齢者の客がいる。だから学生アルバイトは多くても週に2回しかシフトに入りたがらないし、定着せずすぐに辞めていってしまう。そういう訳で2人のパートさんも、社員の田中さんも、出来るだけレジに立ちたくないものだから、自分の担当の売り場に新刊や重版された本の補充をすることに勤務時間のほとんどを費やしている。レジの学生アルバイトが高齢者の客に大声で怒鳴られていても、駆け付けるのは僕だけで、僕はただただ「申し訳ございません」と神妙な顔をして何度も頭を下げるのが日常となっていた。

 

 Tが入って2週間くらい経ったある日、とうとうTもその洗礼を受けた。

 70過ぎの、スーツを着た、きちんとした身なりのおじいさんが、「ばかやろう!長い間並ばせやがって!」と、レジに立つTに大声で怒鳴りつけた。その声は、レジから遠く離れた場所にある、コミック売り場で本の補充をしている僕の耳をも劈くような怒鳴り声だった。僕が駆け付ける間にも、「お前がもっと手際よくやらねぇから、こんなに行列が出来ちまってるんじゃねぇか、ばかやろう!」とか、仕舞いには「ばーか!ばーか!」と、まるで最初から怒るのが目的だったかのような言い草でTに怒鳴りつけている声が聞こえていた。

 僕はいつものように、血相を変えて慌てて駆け付けたというていでレジに立った。そうすればこういう類の客は、満足して大人しくなるのを15年間の書店勤務で知っていた。

 しかし僕が見た光景は、Tが両手を胸の下あたりで組み、「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げている様子だった。それは謝罪と言っても決して媚びへつらう感じでもなく、かと言って相手を刺激するようなものでもなかった。

 僕のその時の時間感覚に狂いが無ければ、Tはそのまま数十秒、頭を下げ続けていた。さっきまで怒鳴っていた客は、虚を突かれたのか、また、他の客からの自分に投げかけられている目線にようやく気付いたか「おめぇも良い勉強になっただろ?」と、所在なさげに体を揺らしていた。Tは、「はい。良い勉強になりました」と言って頭をあげると、後は何事も無かったかのようにレジを切って「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」と言って会釈をし、「お次のお客様、お待たせいたしました。どうぞ」と業務を続けた。

 

僕は、そのとき持っていた、棚入れすべき新刊のコミックを、握りつぶした。