そこまで知らなくても

 散歩する時は、ヘッドフォンを意識的に外すことにしています。もちろん風景に合う音楽というのも存在しますが、やはり風景をよく味わってみるには音楽は少し邪魔になると思うからです。

 いつもの公園のベンチに座り、大きな木を見上げると、枝が網目のように見えます。しかし今日、気づいたのは、一日としてその枝の網目は同じではないということです。成長したり、風で折れたりして、必ず前日とは違って見えるはずです。でも僕たちはそれを、枝の網目、として認識するのです。

 なぜだろう、と僕は考えたのです。

 何をもって、それが枝の網目なのか。下手したら、見上げるたびに毎回違っているじゃないか、と。

 その意識を拡張していくと、物というのが何なのか、厳密にいえば正確に定義できないと僕は思いました。あらゆるものは常に変化します。時間が流れる限り変化し続けます。つまり僕たちが認識している物というのは、実はとても曖昧な状態だと言えると思うのです。

 なので僕たちが認識する物というのは、実はそれほど客観的でもなく、主観的な要素もかなり含まれたまま「共有」という幻想に近いことを他者と行っているとも言えます。特に抽象概念においては、幻想の高度な共有をもってすることで概念が概念たりうるのだと思います。

 

 つまり、物や概念の本当の姿を人は知ることが出来ないけれど、そこまで知らなくても役に立つ考え方であれば、実相はどうだっていい、ということで世の中は落ち着いているようです。