そこまで知らなくても

 散歩する時は、ヘッドフォンを意識的に外すことにしています。もちろん風景に合う音楽というのも存在しますが、やはり風景をよく味わってみるには音楽は少し邪魔になると思うからです。

 いつもの公園のベンチに座り、大きな木を見上げると、枝が網目のように見えます。しかし今日、気づいたのは、一日としてその枝の網目は同じではないということです。成長したり、風で折れたりして、必ず前日とは違って見えるはずです。でも僕たちはそれを、枝の網目、として認識するのです。

 なぜだろう、と僕は考えたのです。

 何をもって、それが枝の網目なのか。下手したら、見上げるたびに毎回違っているじゃないか、と。

 その意識を拡張していくと、物というのが何なのか、厳密にいえば正確に定義できないと僕は思いました。あらゆるものは常に変化します。時間が流れる限り変化し続けます。つまり僕たちが認識している物というのは、実はとても曖昧な状態だと言えると思うのです。

 なので僕たちが認識する物というのは、実はそれほど客観的でもなく、主観的な要素もかなり含まれたまま「共有」という幻想に近いことを他者と行っているとも言えます。特に抽象概念においては、幻想の高度な共有をもってすることで概念が概念たりうるのだと思います。

 

 つまり、物や概念の本当の姿を人は知ることが出来ないけれど、そこまで知らなくても役に立つ考え方であれば、実相はどうだっていい、ということで世の中は落ち着いているようです。

劇的

「着想を得る」とか「ストーリーが降って来る」とか、そういう経験は僕は一度もしたことがありません。書き出しの1枚目を何週間にも渡って書いては消してを繰り返します。そして今は、一度、書くことから大きく距離を取ってみようとしています。小説作法にがんじがらめになっていて、身動きが取れない、そんな状況にあると思ったからです。

 

劇的な何かは訪れません。この先どうなるか分かりませんが、少なくともドラマチックな何かを経験したことはありません。努力が必ずしも報われるとは限らない、そういうことの方が多かったと思います。

 

中年ということを自覚するようになりました。ジムでトレーニングすればするほど体力がついていたのが、ジムでトレーニングしないと体力が維持できなくなり、気力の面でも、これは無理かもしれないなと思うことが多くなりました。

 

ただ、こうも思います。

 

経験を積んだり、技術を身に付けたりすることで、逆に見えなくなるものがある。

 

今日、いつもの散歩道に桜の花が一輪、咲いていました。

嗚呼、春なんだ。そう気付いただけで、あたまの中が更新されていくような感覚をおぼえました。

こちらから向かっていくことばかりでなく、向こうからやって来るのを受け入れる、そういう時間や頭の使い方もあるのではないだろうかと思いました。

アマチュア

なかなか小説が書けません。もちろんアマチュア小説家なので、締め切りに追われることなど無く、気楽なはずなのですが、3か月以上、まともに書けていません。

原稿用紙に10枚くらいを書いては消し、書いては消しをしています。それを繰り返しているうちに、僕は一体、何を書きたいのだろう、何を書くべきなのだろう、小説とは何か、などと本筋からズレて行ってしまい、戻って来るのに何日も掛かるという始末です。

 

十年前に小説を書き始めました。2年かかって400枚くらいの小説を一つ書いたのですが、面白くも何ともないものでした。そしてそれから、面白い小説を書こう、どうすれば面白い小説を書けるか、などと方法論を思いつくままノートに書いていき、10年が経ちました。その間、短編が3本と中編が1本書けました。

 

つまり、書き始めてからほとんどの間、僕はスランプだ、という事です。すいすいと書けたことなど、一度もありません。

そして、今みたいに多くの時間を小説に割くことが出来る生活も、あと数年です。持って5年くらいです。

 

少し急がないといけませんし、もっと集中したいと思います。

 

地下道

 いつもの散歩道に、地下道があります。幹線道路の交差点にあるのですが、僕がその地下道を使うようになったのは、ごく最近のことです。いつも平坦な道ばかりを歩いているので、少し趣向を変えようと思ったのです。

 その地下道は、ほとんど近くの小中学生のために作られたものと言って良いと思います。なぜなら反対側には横断歩道があるからです。小学校中学校のある側の道路が幹線道路と交わるところに地下道があるのです。なので小中学生の登下校時以外はほとんど使われていません。僕はいつも横断歩道の方を使っていて、この近辺に住む人も多くは横断歩道を使っていると思います。

 

 地下道を使ってみると、何か特別な気分になります。ただ道路の下を潜っているだけなのですが、無事に反対側の出口に出られるかと、どこかスリリングな気持ちになります。突然天井が崩落してきて下敷きになるとか、反対側から入ってきた人とすれ違う時など、この人は変質者じゃないだろうな、などと思って少し身構えてしまいます。

 もちろんそんなことは無いだろうと思って地下道を使うわけですが、毎回ちょっぴりおっかないなと感じながら地下道を通るのです。

 

 そして先日、地下道の壁に鉄製の扉があることに気が付きました。その日はそのまま素通りし、家に帰って考えました。何であんなところに扉があるのか?どこに通じているのか?何だか世間で流行ってる、異世界ってところにでも通じてたりして、などと考えながら、とにかくその扉には無暗に触れないでおこう、警報でも鳴ったりしたら大変だ、と思って最近まで放置していました。

 

 それでも扉というのは不思議なもので、あるだけで想像を掻き立ててくるものです。どこか別の通路に繋がっているのか?核シェルターか何かに?いや、こんなド田舎に核シェルターなんていらんだろ。だったら、やっぱり何かの部屋だろうか。こんなところにある部屋なら、何かの備品室なんてわけではあるまい。特別な部屋なのだろう。もしこの扉の奥に迎賓館にあるような豪華な洋室が広がっていたとしたら、すごいな。でも、誰が何のために?

 

 ついに僕は気になって、つい先日、とうとうその扉のノブを回しました。やっぱり開きませんでした。開かんだろうなとは思っていましたが。

 それにしても扉というのは、開かなければ開かないほど、人の想像力を豊かにしてくれる物の一つだと気づかされました。

家から自転車で10分くらいのところに川が流れています。割と大きな川で、河原も広く、夏になるとそこでバーベキューをする人が多くいます。僕はインドア派ですので、バーベキューなどは人生で一度きりしかしたことはありませんし、焼けた肉を網から取ろうとすれば隣の人に先に取られてしまい、満足に食べられなかった記憶しかありません。途中で食べるのを諦めて、川に近づいて、目の前を流れる川の様子を眺めてばかりいました。

 

目の前をどんどん流れる川の流れ方は常に一定ではなく、うねるように流れます。遠くからは川面がきらきらとしていましたが、近づくと深い緑色をしていて、少し苔の匂いもするのです。荒々しさを感じます。毎年この川では事故が起きて、子供や大人までもが溺れて亡くなるので、僕は川には入りません。ただ眺めるだけです。

 

冬の川を見るときは、橋の上から見ます。図書館に行くついでに、です。ついでのつもりが、自転車から降りて、自転車を引きながら川を眺めます。夏の川を見るときは、堤防に腰かけて、ラムネを飲みながら眺めます。

 

川の流れを人生にたとえる人はたくさんいますが、僕は川の流れ自体が心の在り様だと、いつも思います。遠くから見るときらきらと美しいものでも、近づけばずんずんと荒々しかったり、次から次へと移り変わっていく、人のこころに似ていると思うからです。こころの機能というのが、本来、どんなものでも固定させず、移ろわせるものであるからこそ、人は固定したものや絶対的なものを欲するのかもしれないな、と思う時があります。そう考えながら川を眺めるのが僕は好きです。

僕なりの幸福論

周りから左右されずに、自分が何をしたいか、ということを知っている人はとても幸せな人だと思います。人から羨ましがられる職業に就くことや、高給取りになること、影響力のある人物になること等々、そういう価値観に縛られたままだと、僕が思うにですが、あまり幸せになった人を見たことがありません。周りからの評価などというものは常に移ろいやすく、また高給取りになって贅沢をしても、そんなに幸福感というのは長続きしないように思います。

つまり、自分が心底、何がしたいか。今後の人生すべてを賭けて何を成し遂げたいか。そういうことが明確であれば、その為にどう生きるかということが自然と分かってくるし、達成感というのを味わえると思います。

この達成感というのこそ、自分の人生に目標を設定した人だけが味わえる、とても貴重な感覚だと思います。最初はほんの些細な目標を設定するだけで良いと思います。朝起きるのが苦手な人なら、朝8時には起きるようにしよう、という目標を設定する、それだけで十分だと思います。特に早起きというのは、仕事をするにしても捗りやすくなりますし、とても効果のあることだと思います。

このように、周囲から左右されずに、何を自分がしたいかを知る、ということは自分を幸福にする一つの大きな要因であると僕は言えると思っています。自ら不幸になりたい人というのもほとんどいないと思いますから、大抵の人は幸福になりたいと思って生きているものと思います。ですが、どうすれば幸福になれるのか、という事になると中々うまいこと行かない人も多く見受けられます。「幸せになりたい」と願うだけで何も努力していなかったり、努力はしていても方向性が違っていたり、それならまだ良いのですが、自分の一時の幸福のために他人の幸福を奪い取ったりする人も、まま、いるのではないでしょうか。

僕はただのアマチュア小説家ですので、これ以上偉そうなことを言っても仕方ないのでこのくらいで止めにしておきますが、やはり自分の人生すべてを賭けるに値するものに出会うこと、そしてそれに向かって日々努力をしていくこと以外に幸福になれそうなものは無いと思います。

ギターの弾きすぎ

ギターを習い直して1年が経ちます。毎日欠かさず1時間以上は練習し、レッスンも一度も休まず通いました。

結果、何が分かったか。

何の目的も無くギターを習っても意味がないということです。

 

毎日の1時間以上の練習も、その前後で気持ちを整える必要があり、実質2~3時間程度、ギターに時間を費やします。気力も、そして意外にも体力も使います。そうすると、本業の小説の執筆やアイデア出しをしたりするのに支障をきたします。体力維持のために毎日やっているジョギングやエアロバイク、筋トレも気が進まなくなり、体調が悪くなります。

 

あれ?何でこんな苦しいことしてるんだっけ?と思い、先日2日間ギターの練習を休みました。それで思い出したことがあります。

小説執筆の気晴らしと、あわよくばギターから小説のアイデアが浮かんだらいいな、と思って始めたことでした。しかし実際にはギターの練習が真逆の効果を及ぼしていたわけです。

ギターの練習は気晴らしにはなりませんし、小説を書くアイデアも生まれません。

プロのギタリストになりたいという人以外は、毎日根を詰めて練習すべきではないと思います。適当に練習しても面白いものではありません。音楽理論相対音感を身に付けないことには、楽しくはなりませんから。アドリブや作曲が出来ないと面白くはなりません。

2日間ギターの練習を止めて考えたことが以上です。

そしてまたギターの練習を再開したのですが、これもまた目的が曖昧なまま、とりあえずギブソンのギターが部屋にあるから、使わなかったらもったいないとか、いつかはアドリブとか作曲とか出来るようになるだろう、などと淡い希望を持っていますが、早くて10年後の話です。

 

10年後、ギターが弾けるようになるより、10年の間に売れる小説を書くことの方が先決だろうと思い直し、ギターの練習は一日30分以内で、たまに気分次第で休むことにしました。

すると体調が良くなり、小説を書こうという意欲も湧いてくるようになりました。

何事もやり過ぎは良くないのですね。