街の下で

考えたことや思いついた文章も、もたもたしていると頭の中で変なイメージがついてしまって、紙に書く頃には原型を留めていないということがよくあることに気付きました。あまり考え込むよりも、思いついたまま書いてみるということも大事だと思います。あとで読み返してみても、何日も考えて書いた文章や展開より、30分くらいで書いたものの方が面白かったりします。もちろんいつもいつもではありません。熟考しないと進めない場合もあります。でも、多くの場合、熟考するくらいなら風呂に入ってさっぱりするか、ベッドに横になって寝て、次の日また再開すると、すんなり行く時が多いです。まぁ、小説創作論を論じるつもりもないですので、この程度にしておきます。

 

よくブログとかでも、たくさんの人に読んで欲しいという感じのブログを書く人が多く見受けられますが、そりゃたくさんの人に読んでもらうとお金がいくらか入るのかもしれませんが、僕だったら、そういう文章は書けないし、書きたくないなぁ。お金が欲しければ働くし、働いていてさらにブログで稼ごうとすると、おそらく本業を圧迫してしまって本業がおろそかになって本末転倒なんじゃないかな、と。だから僕は、僕がそのとき書きたいことを素直に書くことを目指しています。

 

最近になって、ようやく自分のやらなくてはならない事が見つかりました。それまでは他の誰々さんが出世したとか、結婚して子供を持って幸せに暮らしているそうだとか、風の噂で高校や大学の同級生の情報が入って来るたびに、自分の生活と比較して落ち込んだり、無理に論理を構築して自分のメンタルを守ったりしていましたが、やっとそういうことをしなくても済むようになりました。彼らとは、というか、誰とも、僕と同じ条件や出発点から人生をスタートしたわけでもなく、同じ方向に進んでいるわけではないのです。このような至極、単純なことを頭で理解するだけでなく、感情面や無意識下まで落とし込むのには、やはり時間と労力が要りました。でも、おかげでかなり楽になりました。何を言われても、大抵のことなら「何も分からん奴が何か言っとるわ」くらいで受け流すことができますし、それ以上の、つまり僕を正面から侮辱してくる連中にも最近は会うことも無いです。というか、普通に生きていていきなり侮辱してくる連中に会うというのも珍しいと思います。

 

要するに、過去、侮辱されたことを思い出して悔しがる、それに苦しめられるというだけです。これは厄介です。強烈な記憶、体験というのは中々忘れ去ることはできないものです。今でも思い起こされ、感情が爆発しそうになります。おそらく死ぬまで繰り返されるでしょう。しかし、覚悟を決めてしまえば、少しだけ楽になります。「この体験は、死ぬまで僕を苦しめるだろう。決して忘れ去ることはできない」と。諦めに近いものがあるかもしれませんね。ただ、得体のしれないものに振り回されるより、相手が何なのか知っていた方が、振り回されてもまだマシだと思うのです。

青空

40代前半なのですが、少し前まで、焦りがありました。何とかして良い小説を書こうと思っていました。もちろん今でもそう思っていますが、少し焦りは無くなってきました。残された時間は以前より今の方が少ないはずなのに。不思議ですね。

多分、あまり考えなくなったのだと思います。将来のこととか。今の積み重ねが将来ならば、今、目の前のことを一生懸命がんばるしかないじゃないか、と思うようになりました。それで駄目なら、何をしたって駄目なんだから、心配したって仕方ない、そう思うようになりました。

他人との比較も、そうです。「〇〇君は出世した」とか、風のうわさで聞いたりもしますが、ほぼ全く動じなくなりました。僕とは同じ道を進んでいないし、比較のしようもない。そう思うようになりました。

今まで、一体なにを悩み、誰と戦ってきたのか?

それはおそらく、僕自身だったのだと思います。

僕が作り出したもの、概念と戦っていたのだと思います。

最近になってようやく気付かされました。

悶々と考えながら外を歩いていて、ふと見上げた空の青さにハッとしたとき、気付きました。

空は、ずっと前から青かった。それを見過ごしていたし、見過ごしていた間も空の青さは変わらないし、気付いた後も変わらず青い。

少し抽象的ですが、僕がそのとき感じたことを言葉にすると、こんなところです。

 

あまり考えない

あまり考えないようにしています。特に、小説の書き方について。10年以上、小説の書き方について考えてきましたが、あまり成果が無かったので、これは止めておこうと思うようになりました。加えて、芸術的なことを意識して生活することも止そうと思っています。これも、あまり成果が上がらなかったからです。

その代わりと言っては何ですが、毎日30分、机に向かうことをしています。3カ月経ちました。ちょっと今日は気が向かないなぁ、とか、単純に疲れている、嫌気が差しているときでも毎日30分は必ず机に向かうようにしています。成果が上がれば良いのですが。

最近ブログを更新していませんでした。またブログを書くようにしたいと思っています。誰のためでもないですが、文章を書くというのはやはり面白いからです。当初思っていなかったことが書けたりもしますから、面白いものです。

今年も夏が来ました。暑い夏になりそうです。外に出る機会が減る分、家で机に向かう時間が増えるかもしれません。ただ、単純に机に向かう時間が増えたからといって、小説が書けるかどうかは分かりません。小説を書こう書こうと思いすぎることが、逆に思考を硬直化させるのではないかと思っています。ですので僕の場合は、毎日30分は書く、という習慣にしています。規則でもルールでもなく、習慣です。

 

肩の力を抜く

 肩の力を抜くということが、小説を書き進めることには重要だと考えています。

 今までいろいろと小説作法を考えてきましたが、それの行き着いた先が、「あまり考えない」ということです。小説家のイメージは、机の前で手に顎を乗っけてうんうん唸っている、というのが一般的かと思います。僕自身、10年以上、パソコンの前でうんうん唸っていたわけですが、つい最近、これはあまり意味が無いと思うようになりました。どうしてか?それは自分の頭で考えてください。頭、ついているのでしょう?

 僕の場合、一応、今日は1時間か1時間半は書こう、そんな感じで目標を設定するのですが、最近は、うんうん唸り始めたなと思ったら、席を立つことにしています。煮詰まる前に止めてしまうのです。そして夜にまたパソコンの前に座り、午前中に書いたものを読み返して推敲したり、書き足していきます。午前中には思いつかなかったことが、よく思いついたりするので、この方が自分には合っていると思っています。

 ただ、向かわんとすれば即ち背く、のごとくで、執筆スタイルを確立したと思った途端に書けなくなります。これは小説を書いている人はうんうん頷いてくれることだと思います。なので、僕の今の執筆スタイルも、またどこかで見直したり、変化させる必要が出てくるものだと思うし、執筆スタイル自体を作らないように気を付けた方が良いのかもしれないなとまで思います。

 まあ、小説を完成させよう、そのためにはこうしよう、ああしよう、こうでなくてはならない、などとは思わないようにしようと思います。それも思わないようにしようと思います。

なにをかいわんや

新しいものを生み出す、新しい価値観を提供する、というものに僕はあまり興味がありません。新しいものなんか、どこにもないからです。既存のものの組み合わせで新しいと思っているだけだと思います。どう組み合わせるかが新しいんだ、と主張されるでしょうが、組み合わせること自体がもう既存の手法なのです。ですので、新しいものなどどこにもない、というのが僕の主張です。新しいもの好きな人には怒られるでしょうけれど。

 

人に認められたいという願望が、実はその人自身を強く縛り付けていることに気付いている人は少ないと思います。僕はおそらく今後も一人で考えたことをこうして、ほとんど誰も見ないところで書いているのですが、それは日々考えていることを吐き出して整理したいためであって、認められたいとは一切思っていません。人から褒められたり貶されたりするのは、僕にとって何の意味も持たないのです。人それぞれ考え方も生き方も違うのだから、認めるとか認めないとかは、勘違いに近いものだと思って生きています。ですので、たくさんの人に読んでもらえる文章を書こうとは思わないですし、たくさんの人が読んだからといってその文章が良いとも限らないと思っています。その人の好きに書くのが一番、健康に良いとおもっています。

建前より綺麗なもの

先日、本音で言ってくれていると思っていたことが建前だったと知り、軽くショックを受けた筆者です。

建前より綺麗なものというのは、中々ありませんねぇ。どこか都会的で、洗練された感じがして、とても綺麗だなぁと思いました。自分、田舎者なので、本音と建前を使い分けることがうまくできません。あと、手のひら返し、ですね。あれも中々切れ味があります。技術が必要ですね。

 

僕は絶対に、やりませんけど。

 

文章や物語が自分の中で立ち上がってくる感覚を大事にしているからです。この感覚は、言葉では言い表すことが出来ませんが、小賢しいことを考えていたりするときは経験上、まずやって来ない感覚です。おそらく。

まぁ、日常生活をおくる上で必ず必要だとは言えない感覚なので、別に無くても平気だという人は多くいらっしゃるでしょう。ですが、せっかくちょっとした生き方の違いだけで味わえる感覚なので、気になる人は是非、やってみてください。

 

なに、簡単なことです。

小賢しいことは考えず、数日間生きてみる。ただそれだけです。

それによって人生の教訓を得ようとか、ましてや社会的に成功するためのヒントを得よう、などと言う、すけべ根性は一切捨てることです。

たった数日間。無駄になるのも犠牲になるのも、たった数日です。そう割り切って、まず騙されたと思ってやってみてください。もっとも、僕が騙したところで何も得るものはありませんが。単に、僕自身が昔がやってみて、「こりゃ、いいや」と思ったことなので。

休暇

 深淵の底にあることを考えるでもなく、水面を揺蕩うものを捉えるでもない、そんなことを見つけようとしているように思います。

 よく、「中庸をとる」と言いますが、思索においては自分が今かんがえていることが中庸かどうかということは、おそらく分からないものだと思います。例えば良い例が、日経平均でもS&P500でもよいですが、株価のチャートみたいなもので、今が底値なのか高値なのかということは、何カ月も、もっと言えば年単位でなければ分からない、つまり誰にも分からないということです。そして、何でもかんでも中庸をとれば良いという考え方自体が偏っていやしないかとも思います。

 

 ただ、偏り過ぎているものは、やはり良くないと思います。それは様々な分野において言えることだと思います。バランスがとれていて、均整のとれたものが美しいと人間が感じることから、そう言えると思います。

 そう考えると、僕は随分とまた今回も偏った価値観を披露しているものだ、とも思いますが、今の僕に出来るのはこの程度なのです。他の人と、自身の価値観やものの考え方や捉え方について深く話すことが皆無になって久しい僕は、すっかり自分の殻の中に閉じ籠っている方が安心なのか、ごく稀に誰かと突っ込んだ話になりかけても、ひらりと躱す術ばかり長けてしまいました。

 

 そして帰り道、嗚呼、きょうも夕日がきれいだなぁ、などと思って自分で自分を誤魔化しているのです。思索とは、自分の殻の中で行うものではなく、どのように自分の殻からはみ出たか、抜け出たか、もしくは破壊したか、それを他者に説明する営為であると僕は思います。自分の中だけで完結させるものではないと思うのです。自分という枠組みを、言葉でもって破壊し、他者とつながり合う。それこそが思索の目的であり、思索とは、そのための手段なのではないでしょうか。考えること、それ自体に意味を持たせ過ぎているように思うのです。何のために考えるのか。考えることのために考えているようでは、やはり違うように僕には思えるのです。