市街戦のロックスター

人間の本質を探ろうとすると、直後にやってくるものがある。

 

ジレンマ、だ。

 

自由でありたい、と願う一方で、属していたい、という願望が湧く。

ありのままで居たいという場合もそうだ。次の瞬間には、価値尺度に自分を当てはめてしまう。

極端に突き詰めて考えても、感覚的になってみても、同じことだ。このジレンマは、生まれてから死ぬまでの間に、誰とも接触することのなかった人間にだけ免除される。所属欲求も、承認欲求も、人と接することから生まれるからだ。また、人と接することでしか、それらの欲求は満たされない。つまり、この文章を読んでいる、そこのあなたも例外ではないのだ。私はそうではない、そんな欲求は感じない、と言い張る人もいるだろうし、そんなことは知ったことではない、と、そっぽを向いて、このページから立ち去る人もいるだろう。

どちらにしろ、自由か、そうではないか、その狭間で揺らいでいるのが人間だ。

 

それは、直線的あるいは空間的に把握されるものではない。本当の姿は、眼には見えない。これだ、と、頭の中で閃いた次の瞬間には、もうそれに対する疑惑が持ち上がる。本当にこれが、実像だろうか、と。

しかし人間には、認識、というプロセスを経ないと理解できないという特性があるため、認識に認識を重ねる、ということをして実像に迫ろうとする。それは泥団子の上に泥団子を重ねるような、非常に不安定であやふやなものだ。得てしてそれは、いとも容易く自らの重みで瓦解する。様々な主義や主張が、一度も崩壊することなく存在することが出来なかった、もしくは、存在し続けているように見えるものであっても、それは既に、無い、という概念にしか存在しない場合においてのみ存在している。つまり僕のこの説も、そういった主義、主張と同じ運命を辿るのだ。

この結末は、僕も予想していなかったが、これより先に進むことは、どうやら現時点では難しいようだ。