変態と冷静と均衡

 自分が『変態』だと認める人は少ないでしょう。僕が知っている文学者の中でも、自分が『きちんとした変態』だと認めているのは澁澤龍彦くらいです。

 

 僕は、人間みな、平等に変態性を兼ね備えていると思っています。

 誰もが、『狂気』に駆られる瞬間というのが、あると思います。それは長い間生きている人ほど、感じるのではないでしょうか?

 少なくとも僕は、ふと狂気に駆られる瞬間があります。それは家族や友人(今はいませんが)との食事中、突然、テーブルをひっくり返したくなる瞬間があります。今、持っている味噌汁のお椀を相手にぶちまけたくなる瞬間というのがあります。それは何も、相手が理不尽なことを言っていたり、僕を罵倒していたりしたりするからではありません。ただテレビを見ながら、食卓を挟んで座っている相手が、コメンテーターに向かって何か批判的なことを言ったとき、衝動的に、『こんちくしょう、テーブルをひっくり返してやろうか!』とか、『お前の顔に、この熱い味噌汁をぶちまけてやるぞ!』などという狂気が湧いてくるのです。

 

 しかし、この『狂気』があるからこそ、『冷静』というものを意識する、ないしは『勤めて』意識することが出来るのだと思います。

 僕は上記のような狂気に駆られても、一度もテーブルをひっくり返したことも、味噌汁をぶちまけたこともありませんから。

 

 狂気を感じたことのない人間に、どうして冷静を感じることができるでしょうか?

 

 澁澤龍彦は、きちんとした変態ですが、その根底には均衡を保とうとする人間の本能みたいなものを感じます。『均衡』というのは、バランスを保つという意味だと、この場では思ってください。つまり、人間は、変態性があるからこそ冷静であることを意識することが出来、それ故にに均衡である、というのが僕の見解です。

 

 より冷静で居たいと思う人、すなわちビジネスマンや経営者などは、自己の変態性により自覚的でないと、冷静であることは出来ないと思います。

 均衡のとれた、バランスのいい人間。その人がする仕事というのは、実は、そういうことだと思うのです。