世間

最近よく思うことなのですが、というか最近になってようやく思うようになったのですが、「世間」というものを少し意識するようになりました。

僕は、つい最近まで、人と話していたりする際に

 

「?」

 

と思う時がたくさんありました。

 

相手の反応に違和感を覚えても、自分の話したい事を話し続けてしまっていたのだと、今ではそう思います。

「自分の意見を持つことは重要だ」ということを、そのまま真に受けて生きてきたわけです。そのため、「?」と感じることがあっても、どう話せばこの人は納得してくれるか、と散々考えて話していました。そうやって論理的一貫性や倫理観を後ろ盾にして話をしても、そこまでいくとほとんどの人との間で軋轢や亀裂が生じてしまっているという人間関係を繰り返してきたと思います。

 

結論から言いますと、ほとんどの人が、人付き合いする際に気を付けることは「その相手の背後に何があるか」ということになると思います。あまり大っぴらには言えませんが。多分、こういう事を言ってしまう僕というのも、まだまだ世間を相手にするには危ういのだろうとも思います。もちろん。

話を戻しますと、人が目の前の人と人付き合いをしようと思ったところで、実際のところ、その目の前の人を見ているわけではない、ということが起きます。つまり、人付き合いをしようと思えば思うほど、人付き合いはできない。それが人付き合いというものだ、という事です。何を偉そうに言っているんだと、ここまで読んで下さった人は思うでしょう。もう少しお付き合いください。

 

まだまだ、僕は自分の意見が言いたいみたいですが、以後は、経験から得た「実験データ」みたいなことを話していきたいと思います。それは意見と呼ぶには、それ自体に多くの矛盾があるものの、総体としてなにやら立ち上がっている、というようなものになります。おそらくその方が、読んで下さっている人(いるのか?)にも、「疑似体験」として役に立ちやすいのではないかと思うし、書いている僕もストレスがありません。これまで書いてきたものは、ほとんど全てが一つのテーマに絞って考えて書いてきたので、このように思う事をサラサラと書くことはしませんでした。

 

「?」

 

と感じたら、まずはそこで話すのを止めることが大事だと気づきました。

十中八九、相手は僕の背後にあるものを考えている場合が多いです。

そういう場合は、切るに切れない場合を除き、徐々に距離を取っていき、

「これくらいなら不快にならないな」

と感じるまで離れるのが最も現実的で、多くの人が使う手だと思います。おそらく、おそらくですが、人間関係を相関図のように頭の中で思い描いて、そこから自分が最も得をする手段は何かと考えたところで、考えただけのリターンは無いと思います。そのくらい人間関係を考えるというのはエネルギーを使います。

僕が思いつくのは、いまのところ、こんなもんです。

 

距離を取ること。

距離を取って、冷静になること。

そして、人ではなく、世間を相手にすること。

 

それは何も、狡猾に相手を出し抜くことではないと思います。

大局観を養い、個別に対処していくこと。

その際は様々な矛盾を抱えざるを得ないです。

しかし、それを積み重ねていくと、自分の背後には、何かもやもやとしたものが立ち上がっていて、世間というのは、そういうのを相手に僕にアプローチしてくるのだと思います。