その蛇、自らの尾を飲む

 小学生のころ、父にこう尋ねたことがあります。

「どうして物に利益をつけて売るの?みんなが物に利益をつけないで渡し合えば、買えなくて困る人はいなくなるじゃない」

 父は、こう答えました。

「世の中は、そうやって回るものなんだから、そんなことは考えるな」

 

 僕は最近になって、改めてこの意味を考えることが多くなりました。

 一つは、このコロナ禍で、経済的に困っている人に対する支援のあり方です。

 政府は、いつものように政権運営のことばかりが頭にあるようで、支持率や組織票を失いたくないがために大企業ばかりを支援し、日本経済社会を構成する残りの99.9%の中小・零細企業への支援は大企業へのそれと比べて雀の涙です。また、国家公務員のボーナスは「0.05%カットしました!」などと、一般企業の下げ幅と比べてもまた、それは雀の涙です。よくそんな恥ずかしい事、大々的に言えるなぁ、と呆れかえる始末です。

 では、なぜこのことが、小学生のころの僕の疑問とつながるかと言うと、このコロナ禍に陥った時、僕が、まっさきに思い浮かんだ支援の仕方というのが、

 

 「国家権力を使って、政治家、国家公務員、医者、弁護士、公認会計士、その他もろもろの特権階級の人達の口座からお金を、ポーンと困っている人の口座に移す」

 

ことです。

 

 これが一番、手っ取り早いと思いました。

 ですが、「民主国家では、そんなことはありえない」と、すぐ気づきました。

 というか、人類史上、そんなことが出来た試しはないし、社会というものがある以上、あり得ない手段であるとも思いました。

 

 もう一度、最初に戻ります。

 物に利益を付けずに渡し合えば、買えなくて困る人はいなくなるはず。

 確かにそうですが、世の中には「お金」というものがあります。

 それは社会が成立し、維持され、発展していくうえで、とても便利で、かつ不可欠なものです。

 

 つまり、なにが言いたいかというと、小学生の頃の僕は、

 「なぜ、お金があるのか?」

 という、根源的なことを疑問に思っていたということです。

 

 そして40歳目前になるまで、この、物事を根源的な視点から考えることを大事にしてきました。

 

 「そう覚えてしまえばいい」、「それを使って何が出来るかを考えた方が建設的だ」

 という周りのアドバイスを一切、聞き入れずに、です。

 

 ようやく、この歳になって、「そういうものなのかもしれないな」と思うようになってきました。そのことにもっと早く気づいていたら、失うものも少なくて済んだかもしれないな、と思います。

 

 しかし、物事を根源的視点から考えること、そもそも何が問題なのか納得するまで考えること、それを捨てる気はまだありません。

 

 一つに、このコロナ禍における政府の国民への支援のあり方への疑問というのを先に挙げましたが、二つ目に、社会主義という体制への僕の考え方の変化があります。

 

 僕は個人的にですが、民主主義、特に資本主義体制は崩壊に近づきつつあると思っています。

 人類は、社会を構成し始めた頃からすでに資本主義でしたし、その弊害を無くそうと民主主義が興るわけですが、それは人間の、「本能」に突き動かされた一連の動きにすぎないと思います。

 どうすれば社会全体が良くなるか?

 それを「理性」的に突き詰めて考えて行くと、どうしても社会主義に行き着くのだと思います。

 しかし、歴史上、社会主義が完全に機能した例は無いと思います。

 それは、また最初に戻りますが、なぜ人は利益を求めるのか?という問題に対する明確な答えが出されていないからです。

 

 「平等」を求める一方で利益も求めることが、そもそも矛盾していないか?

 

 人間の孕む矛盾が解決されない限り、社会の歪さは解消されないと思います。

 

 そう考えると、社会全体が一つの生命体のような気さえしてきます。

 矛盾を孕んだものに対し、どうしてそんなものが成立し得るのか?という、ある種、『畏れ』に近いものを感じるからです。