レール

こんな風に言って良いのか分かりませんが、世間一般で言うレールから外れて長い間経ちます(フランクな意味で捉えてください。悪意はありません)が、まだレールの上を歩きたがろうとする自分がいます。「これをすれば成功する」とか「成功する人はこれをしている」などと勝手に法則を発見(?!)しては、それを何日か試してみて、いつの間にか忘れている、そしてまた新しい法則を発見する、それを繰り返しているみたいです。

 

いつの間にか、「成功」とか口走るようになってしまっていた自分がいたことに気が付き、少し恥ずかしく思います。よく小学校や中学校の行事で「○○を成功させよう」とか、そんなのあったなー、などと思い返します。がんばろー、がんばろー、なんて皆で大きな声をあげて言ってたなー。

 

最近になって、ふと思うことがあって、「あ、もうこれ以上考えるの止めよっかな」となりました。多分、今このブログを書いている自分というのも考えすぎていると思います。

 

将来どうなる、こうなる、そんなことばかり考えずに物を書いてみたいと思っています。

 

 

持病

裏山の、あまり知られていない長い階段を上ると、少し行ったところに祠があります。最近涼しくなってきたので、朝の散歩がてらお参りに行っています。お地蔵さんが何体も並んでいて、何だか有難い気持ちになります。そしてちゃんとお花を祀ったりお水を入れ替えたりする人がいるみたいで、いつ行っても色鮮やかな花と清潔な水になっています。なので僕も賽銭箱にその日の気分ですが、お参りに行ったら必ずお賽銭を入れています。

その祠を通り過ぎて更に進むと、裏山の登山道に入ります。ですが、ほとんどこの登山道を使う人はいないみたいで、10分も上り進めると、もう獣道でどっちに進めば良いのか分からなくなります。そこで僕は引き返すのですが、引き返してくる道は、登ってくる道よりも険しく感じます。石に苔が生えていたり、もともとグラグラする道だったりするので、下る時は滑りやすいのです。それでも道のそばをせせらぎが流れていたりするので、とても気持ちがいいです。家に帰ってくると、大体1時間が過ぎています。

 

僕の毎日は、このように、ほとんど他人と話すことはありません。以前はこういう毎日に寂しさを感じて、SNSでつながった人と山登りをしたことが2回あるのですが、何だか相手に気ばかりを遣ってしまい、全然山登りを楽しめませんでした。他にも、自分の書いた小説を読んで欲しいという人の相手もしましたが、相手の気に入りそうな感想を考える方に必死で、率直な感想は伝えられませんでした。

 

そういうこともあり、僕はもう、これ以上、人付き合いはしないでおこうと思うに至りました。

人付き合いをして気を遣うより、散歩したり本を読んだり、体を鍛えたり、そして小説を書いたりしていた方が僕には合っていると思いました。寂しさ、人恋しさは正直ありますが、自分のやりたいことや、やるべき事の方を優先しないと、この先、それほど時間は残されていないと思ったからです。

あと5年もすれば両親のどっちかを介護しないといけなくなるでしょうし、その前に一つでも二つでも小説を書いておきたいので、やはり時間はありません。

そして僕もあと10年もすれば死ぬでしょう。少し焦っています。ですが、良い焦り方だと思っています。ようやく自分の人生がはじまったなと、最近思っています。

方法の方法の方法

読みたい本が何冊もあるのですが、いざ読もうとすると何か問題が起きて、なかなか読めないでいます。パソコンが壊れ、新しいパソコンを買ったのですがそれも不良品だったので修理に出して、などと先月はパソコンに振り回された一か月でした。

 

パソコンって、あくまでも仕事をする道具ですよね。

それがいつの間にか、「不具合の出ないパソコンにする」ということが目的になってしまっていました。そして、さぁ不具合も直った、仕事をしよう、と思った頃にはヘトヘトにつかれてしまっていて、数日間寝込んでしまいました。

 

しかし、その数日の間に気づいたこともありました。

僕は良い小説を書くにはどうしたら良いか、ということばかりを考えていて、実際に小説を書くことから遠ざかってしまっているということです。以前も同じことを書いているかもしれませんが、方法論ばかり考えていて、実践されていない、もっと言えば方法の方法の方法を考えていて、実際には一行も書き進められていなかった、ということです。

小説を書くようになって10年近いですが、今の僕が思うことは、必ずヒットする小説の書き方は無い、ということです。昔、何百万部も売ったベストセラー小説をいま読んでみると、全然面白くない、なんてことはよくあることです。きっと作者も、どうして売れたのか分からないというのが本音だと思います。

 

そういうことや、まあ説明すると長くなるので割愛したことも含めて、僕はどうすれば良い小説を書けるかとか、良い小説とは何かとか、そういうことを考えるのは止して、一行一行、小説を書き進めていくことをしようと思うに至りました。

そう思うと、霧が晴れたかのようにあたまの中がすっきりします。

また、ギターの練習も、本来の目的に沿ったものにしようと考えるようになり、肩の荷が降りた気がします。僕の場合、何か小説のヒントになったり、また気分転換にならないか、という理由で始めたので、これまでのように一日2時間も練習はしなくなりました。せいぜい40~50分くらいで止めることにしています。こうすれば読みたい本を読む時間と体力と気力も出てくるものと思います。

売れますかね。

僕の最近のルーティンをここに記すと、

 

7時起床

9時から エアロバイクを30分こぐ

10時から12時まで ギターの練習

12時から14時まで 昼食と昼寝

14時から16時まで 小説を書いたり考えたり

16時から17時まで エアロバイク30分と筋トレ

17時から21時まで 夕食と風呂と犬を可愛がる

21時から22時まで 小説を書こうとして眠くなる

22時 就寝

 

といった具合だ。買い出しに行ったり、何か特別なイベントが発生しない限り、僕は大体、このルーティンで生活している。そして、今現在、眠くなっている。21:27だからだ。

 

試行錯誤を重ねて、このルーティンに行き着いた。最も実効性があり、無理が少ない。だが、それで僕の書く小説が魅力的になったかと言えば、ノー、だ。なぜか?

 

それは、面白いものを書こう、売れる小説を作ろう、という意識ばかりが先走ってしまっているからだと思う。毎日、気がつくと小説の題材になりそうなものはないか、周囲を観察していたりする。つまり、常に小説のことを考えている。

 

結論から言うと、僕はそのスタイルはあんまり良くないと思う。たしかに小説の題材というのは生活の至る所にあるのだろう。それを見逃して生きている。だから見逃さないようにと常に気を張っているのだが、それが逆に良くないのだ。おそらく、おそらくだが、頭の中を整理する時間というのが必要なのだと思う。考えても考えてもダメな時、そういう時は「もー、いいや」と言って寝るなりした方が良いと最近は思っている。休息を取って頭が自然に整理されるのを待つしかない。

 

売れますかね。

まぁ、どっちでも良いですけどね。

狙って書けるものでもないですしね。

 

とにかく、僕はこれから休息をとること、休息をとるという意識も忘れて休息をとろうと思います。

文字と音符

最近、ギターを弾いてばかりいます。正確に計ってはいませんが、一日4~5時間は弾いていると思います。ギターを習いなおすようになって一年が経とうとしていますが、家で練習する時間はどんどん増えていっています。

 

明らかに本業を圧迫しています。

僕の本業は小説を書くことです。

 

一年前から、数十ページしか進んでいません。本当に小説家を目指す人間としては危険水域に入っています。結局、楽しい方、楽な方に流されてしまっているのだと思います。

 

ただ、ギターを習いなおし始めた動機は、小説を書くためでした。小説に音楽という刺激を与えるために。しかし今ではギターが上手くなりたいからギターを弾いています。すっかり音楽の世界に引きずり込まれてしまいました。

 

小説と音楽に親和性はあるか?と訊かれたら、僕は「ある」と答えます。それは多くの小説家が作品の中に音楽を取り入れていることからも明らかだと思います。また逆に、音楽家が小説からヒントを得て音楽を作るという話も聞いたことがあります。

 

しかし、小説を書くときに、どっぷりと音楽に浸ってしまったらアウトだと思います。やはり小説は小説、音楽は音楽なのです。小説が音符で出来ていないのと同様に音楽も文字で出来てはいないのです。

刺激を受けるのは良いことだと思いますが、小説が書けなくなるほど音楽にのめり込むは間違いなのです。

 

一年ののち、やっとこれに気づきました。

 

ちなみに『一年ののち』という小説があります。フランソワーズ・サガンが書いたものです。

今では絶版になっています。気になる方は、古本屋さんかフリマアプリなどで入手してみてください。

普通

これまでに無い、何か。

誰も思いつかなかった、アイデア

そういうのをずっと探していました。どれくらいずっとかと訊かれると、はっきりとはわかりませんが、小説を書き始めた頃からは10年が経ちました。

そして最近になって気づいたことは、僕が考えてきたことなんて、他の誰かがずっと前に考え尽くしているだろうということです。それに、僕はいつからか考えることが目的になってしまっていました。僕の目的は、あくまでも小説を書くことで、その手段として考えているだけなのをずっと忘れていました。

 

そして、ここ数年、ずっと小説が書けないでいたのも、そういう考えに縛られていたからだと思いました。

 

面白い小説とは何か?

 

それをずっと考えていました。面白い小説のカラクリを知ることで、それに沿って書けば面白い小説が書けると思っていたようです。

ヒットした小説を読み漁り、その雰囲気を纏わせた文章の羅列が、ここ数年の僕の小説でした。最近になって読み返してみて、ようやくそのことに気づきました。

 

どうすれば面白い小説が書けるのか?ということに縛られすぎていたのだと思います。

 

少しその縛りを緩めようと思います。そうしないと、小説を書くのがとても辛くなってしまいます。まずはどんな形になろうが書き上げることを目標にしようと決めました。

あまり奇をてらうより、普通のあたまの回転数で小説を書くこと。そうしないと量が書けません。まずは質より量を求めて書いていきたいと思います。

 

まぁ、ここで宣言する必要も無いのですが。

最近更新していないので、とりあえず今思っていることを書いておこうと思いまして。

一歩

思えば20年間、僕は同じところをぐるぐる回っていたように思います。

いい加減、前に進もうとしたときもあります。しかしぐるぐる回っていた僕には、どの方向が前なのか、分からなくなっていました。ほとんどの場合、前に進もうとして明後日の方向に進んでしまったり、逆に後ろに戻っていたりしていました。

今でもそうです。一体どこに向かえば前に進んでいると言えるのか分かりません。

ただ、誰かに引っ張って行ってもらったり、リードしてもらおうとは思っていません。

絶対的な価値の存在を認めていないからだと、自分なりに思っています。

そして絶対の反対が相対だとも、最近では思わなくなってきています。相対を認めた時点でそれは絶対なのではないかと思うからです。

 

それでもなお、前に進むということがどういうことか考えると、おそらく分かりやすいのは、地位や富や名声を得ることだと思います。これらを得られた時、前に進んだという実感が得られるのではないかと思います。

 

いやいや俺は違うんだ、きちんとした仕事を持って家族を養うことが喜びだ。

そうよ私も子供を産み育てて、立派な大学に入れてきちんとした仕事に就かせることが喜びなのよ。

 

こういうことを言い出すと、異論反論が噴出するでしょうし、少なくとも小さな反感や若干気分が悪くなるという人が続出するでしょう。

しかし、そう感じてしまうことが、本当に前に進んでいる人とそうでない人の感じ方の違いなのだと思います。

 

僕が言いたいのは、皆と同じレールに乗って進むのと、前に進むとういうのは違うということです。もっと言えば、人生において前に進むというのは、別次元の話です。分かりやすく地位や富や名声を得ることが前に進むこと、と言いましたが、それは違います。

前に進むというのは、受け入れるということです。都合の悪いこと、耳の痛いこと、不愉快なこと、そういう一切合切を受け入れ、また受け入れられないことを受け入れるということだと思うのです。

すると、一瞬、視界がクリアになります。

その足で踏みだした一歩が、前なのだろうと思います。