桜吹雪、小説的な何か、老人

今年の桜も散り始めました。僕は毎年、この季節になると同じ公園の同じ場所で桜を眺め、写真を撮ります。意識的にそうしているわけではなく、桜が一番きれいに見られる場所が、近所ではその公園しかないからです。歩いて10分ほど。軽い運動にもなり、気晴らしになります。

 

今日は近くのコンビニでホットコーヒーを買って、公園のベンチで座りながらそれを飲み、桜を眺めようと思っていました。

 

そこに、一陣の風が吹きました。

桜吹雪が舞い、僕はその光景を見て反射的に小説的な何かを思い浮かべようとしました。

思い浮かびませんでした。

 

風が吹き止み、桜吹雪が止むと、向こう側に老人が立っていました。ぴくりともせず、こちらを向いていました。帽子を被ってマスクをしていましたが、おそらくおばあさんです。

僕は桜吹雪がとても綺麗だと思いました。

ですがおばあさんは、どう思ったのだろう?

おばあさんは、あと何回この桜吹雪を見られるのだろうか。

おばあさんの人生もこの桜のように皆に愛されるものであったのだろうか。

 

桜が舞い散っても、おばあさんはじっとそこに佇んでいました。

僕は、今回だけは写真を撮らないでおこうと、その場を去りました。

流れ

僕の奥底に、一体何があるだろうか?一時期、そのことばかりを考えていました。

僕にしか書けない文章、あるいは表現があるとしたら、僕を構成する根源的なものにそのヒントがあるはずだ、と。

そうやって自分の中をじっと見つめていくと、突き当たったのは、「流れ」でした。

固定された考えではなく、何もかもが流れている状態、それが僕の奥底にあるのだと思いました。

ただただ流れていて、完全に掴むことはできない。それが僕の本質だと気づきました。

流れる方向を予測したり、一時的に堰き止めたりすることは出来ますが、完全にコントロールすることはできません。それが「僕」なのかどうかも、あやしい。そう考えると、かなり不気味なものと人生を共にしてきたのだなと思います。

「流れ」といっても、それはイメージ出来るものではありません。考えていった結果、「流れ」としか言いようがないということです。ですので、川の流れのようなものを単純にイメージされると、僕の言っている流れとは齟齬があります。

無常観というものがありますが、それとも違います。得体の知れない流れが確実にあるからです。

言葉で言い表そうとすると、限界があるかも知れません。かと言って何かの修行をして理解、体得する類のものでも無い気がします。

 

例えば、あるベストセラー小説があるとします。

小説というのは文章の集合体です。そして文章は、読む人によって受ける印象というのが違ってくるはずです。ですが、それを読んだ多くの人が一様に「感動した」と言うのです。もちろん、つまらなかったという人もいます。

僕は、本来なら、感動もつまらないも無い、というのが小説だと思うのです。

それは、文章とは、読む人によって受ける印象が違うはずだからです。小説は文章の集合体なので、行き着く先は皆てんでバラバラなはずです。つまり皆、各々違った印象を受けるはずなのです。しかし現実は違う。これはどういうことでしょうか?

 

流れている。何もかもが流れている。そう直感的に思うのです。

薄口小説作法②

先日、あることに気づきました。

前と同じ事をしていても、全く同じ様にはならない。

「良いか悪いか」「有益か無益か」という観念を入れないで見てみる、ということを多くの人はしないみたいですが、僕はそういう観念を排除できる生活をしているので、やってみました。

すると、前に何度も繰り返し読んだ、それも大いに感動した小説に「あれ?こんな表現、あったっけ?」だったり、「ん?こんな印象だったっけか?」などという体験をしました。

また、自分の書いている小説でも、「あ、今度こういう風に書いてみよう」などと散歩している時に思いついても、実際に原稿用紙に向かって、さぁ書こう、となっても全然思いついたように書けないことが殆どです。

 

今回、そういう出来事に対し「評価しない」というスタンスをとってみました。

有名作家の小説を読んで良し悪しをつけたり、自分が書いている小説の進捗ばかりを気にしたり、そういうのを意識的に止めてみようとしました。

完全にそれらが意識から離れることはありません。人間だもの。

ただ、そうすることで「自分にとって、どうか?」ということを強く意識するようになりました。

有名作家が書いた小説だから必ず面白いというわけではなく、そもそも読んでいる僕の気分や体調や時間帯によって同じ小説を読んでいても受ける印象は変わるという事実に気づきました。

また、有名作家の小説作法にあるような「さらさらと一筆書きのように書きました」とか「思いついたら一気に書き上げるんです」みたいなのは、僕には合わないし、そもそも合わせる必要なんか無い、ようやくそう気づきました。

 

僕たちは生まれて多くの時間を他者との比較の世界の中で生きます。そうすると自然に、良いか悪いか、有益か無益か、という観念が染みついてしまい「常に相手がいる」という意識が働くようです。競争、とでも言いましょうか。

ですが、小説を書く、という極めて個人的で孤独な営みをする場合においては「相手は自分」です。どこの誰とも競争しているわけではないのです。思ったように進まない、と落ち込む、その「思ったように」というのはおそらく誰か他の作家や評論家の意見に知らず知らずのうちに感化されて作り上げたイメージでしかない。

自分と自分の書く小説との関係性は、自分そのものである、そう思います。

 

冬、何を持ちてか、歩く

冬だ。

公園にはほっぺを赤くして走り回る子供たち。

僕はじっと手の平を眺める。

何かを掴み取ろうとして、出来なかった手。

立ち止まる。

ポケットに手を突っ込む。

首を前にして、

歩く。

全て間違い

僅かばかりの仕事をして、僅かばかりの収入を得てなんとか暮らしているのですが、これは駄目だと思っています。

4年間、無収入で、貯金を切り崩して暮らしていたのですが、その頃の方が良かった気がしています。ずっと。朝、散歩をすると鳥たちの朝特有の鳴き声が心地よかったり、日中は小説を書くのですがその不出来に打ちのめされ、しばらくして、はっと机から顔を上げて窓から見える夕焼けが、やけに身に沁みていました。

今、その頃の気持ちになるのがとても難しく、その頃の気持ちを思い出すことも中々できなくなってきているのを感じます。かと言って、今の収入を手放して、また貯金を切り崩して生活する日々に戻るという決断もできずにいます。あの頃は、ドラッグストアで歯ブラシ1本を買うことに10分も15分も悩んでいました。

ただしかし、思うに、そういう暮らしは所謂、下積み生活というものであって、いつまでも下積みしていても仕方が無いとも思うのです。つまり、そこから抜け出た、もしくは本意ではないが別ルートで抜け出たのであれば、そこから見える景色というのもあるはずだと思うのです。

下積み生活を送っている人に対して、多くの人は同情票を投じてくれます。

しかしそれは、その人の作品に対しての良いか悪いかには関係が無いものです。

良い作品を作らないと、やはり意味が無いと思います。

あたまに浮かんでくるイメージが、全て間違っている様に感じる、この頃です。

薄口小説作法①

良い小説を書こうと、毎日朝から晩まで考えているのですが、なかなか上手く行きません。というか、そもそもこれまで自分で納得できる小説を書いた事がありません。そして、僕の書くペースがとても遅いということも大きな問題です。

 

あらゆる芸術は模倣である。

 

そのようなことを耳にしたことがあります。

僕も最近、それを認めざるを得ないと思うようになりました。小説を書いている時、あたまに思い浮かぶのは、自分が感銘を受けた小説のストーリーで、どうにかそれを真似しないで、もしくは真似だと悟られないように書き進める、そんな風に小説を書いているというのが実態です。おそらく、それは小説を書こうとする人なら一度は陥ってしまうものだと思います。

 

盗作になりやしないか?

 

影響を受けることと、模倣することの境界線というのがどこにあるのか、僕にはよく分かりません。ただ、いま書いている小説の巻末には参考文献として、いくつかの小説のタイトルを記しておこうと思っています。それがあるか無いかで、随分ちがうと聞いたことがあります。

 

最近の僕の書くブログの記事は切れ味が悪くなったなとお感じの方もいらっしゃるでしょう。書いている自分でもよく分かっています。以前ほど、突き詰めて物事を考えることが出来なくなってきている気がします。「言い切らない」ということを意識するようになったのも、その要因の一つかもしれません。

短編小説を書くなら、物事を突き詰めて考えて行って、言い切ってしまっても、ボリュームが少なくて良いので成り立つのですが、長編となると全くアプローチの仕方が変わります。ほとんど、あてもなく海を漂流しているのと何も変わらない、そんな感覚で書くことになります。書いている自分も、当初のプロット通りに進まず、やきもきしたり、不安や焦燥感に駆られるようになります。

 

(つづくかも)

ギター

趣味のギターをまた習い始めました。9年前に始めて、2年半前まで習っていたのですが、コロナの出現と仕事を辞めたことで、ギターのレッスンを止めていました。

コロナとの付き合い方が分かって来て、かつ収入も何とか入って来たので、レッスンを再開しました。

3か月経ったのですが、練習を休んだ日は2日だけで、毎日25分の練習をしています。25分だけなら楽勝じゃん、と思われるかもしれませんが、25分間ずっと集中し続けるのは実は結構疲れます。それを毎日やるので、かなり嫌になります。小説の息抜きにと思って始めたのですが、小説とはまた違うストレスを抱えています。

それでも少しずつ上達していくのを感じると、小説とは違う喜びを感じます。

ギターから小説に直接繋がるようなアイデアはおそらく無い、少なくとも僕の場合は、と思っていますので、ギターに費やす時間と情熱は控えておこうと思っているのですが、ついつい時間があるとギターのことを考えてしまいます。ギターというものは、そういうものなのでしょう。

アコースティックギターを弾いているのですが、今までにアコースティックギターの形がカッコ悪い、という意見を言う人を見たことがありません。大抵は肯定的な意見を言う人が多く、そういうことを考えてみると、アコースティックギターというのはある意味、完成されたフォルムなのだろうと思います。弾けなくても、飾っているだけでも、アコースティックギターというのは十分に意味のあるものなのです。