薄口小説作法②

先日、あることに気づきました。

前と同じ事をしていても、全く同じ様にはならない。

「良いか悪いか」「有益か無益か」という観念を入れないで見てみる、ということを多くの人はしないみたいですが、僕はそういう観念を排除できる生活をしているので、やってみました。

すると、前に何度も繰り返し読んだ、それも大いに感動した小説に「あれ?こんな表現、あったっけ?」だったり、「ん?こんな印象だったっけか?」などという体験をしました。

また、自分の書いている小説でも、「あ、今度こういう風に書いてみよう」などと散歩している時に思いついても、実際に原稿用紙に向かって、さぁ書こう、となっても全然思いついたように書けないことが殆どです。

 

今回、そういう出来事に対し「評価しない」というスタンスをとってみました。

有名作家の小説を読んで良し悪しをつけたり、自分が書いている小説の進捗ばかりを気にしたり、そういうのを意識的に止めてみようとしました。

完全にそれらが意識から離れることはありません。人間だもの。

ただ、そうすることで「自分にとって、どうか?」ということを強く意識するようになりました。

有名作家が書いた小説だから必ず面白いというわけではなく、そもそも読んでいる僕の気分や体調や時間帯によって同じ小説を読んでいても受ける印象は変わるという事実に気づきました。

また、有名作家の小説作法にあるような「さらさらと一筆書きのように書きました」とか「思いついたら一気に書き上げるんです」みたいなのは、僕には合わないし、そもそも合わせる必要なんか無い、ようやくそう気づきました。

 

僕たちは生まれて多くの時間を他者との比較の世界の中で生きます。そうすると自然に、良いか悪いか、有益か無益か、という観念が染みついてしまい「常に相手がいる」という意識が働くようです。競争、とでも言いましょうか。

ですが、小説を書く、という極めて個人的で孤独な営みをする場合においては「相手は自分」です。どこの誰とも競争しているわけではないのです。思ったように進まない、と落ち込む、その「思ったように」というのはおそらく誰か他の作家や評論家の意見に知らず知らずのうちに感化されて作り上げたイメージでしかない。

自分と自分の書く小説との関係性は、自分そのものである、そう思います。