許してちょ

 10代後半から30代前半くらいまでの間、僕は強い憤りを感じながら生きてきたように思います。親子や家族間の関係や、友人・知人、人生の先輩・後輩、仕事関係の人達など、自分の周りの人間関係や、新聞やテレビのニュースで知る政治・経済・宗教などの問題など、自分とは距離のある事柄に対し、常に腹を立てていました。理不尽がまかり通る世の中に、ただただ怒りをぶちまけてきました。

 

 しかし、実社会から身を引いた今、ある一つの考えが僕の中に生まれました。

 

 「人間とは、そもそも矛盾を孕んだ生き物である」

 

 世の中を俯瞰して見ることが出来る今の僕の立場から、どうやらこれは確からしいと思っています。

 

 この生来の矛盾が、あらゆる問題の根源であることは言うまでもないのですが、あらゆる問題を、解決とまでは言いませんが、ある程度落ち着かせることができるのも、人間が矛盾を孕んでいる生き物ゆえだとも思います。白黒をはっきりとさせず、曖昧にしておけることは、人間関係の諸問題、大きくは国と国との問題を取り扱う上で、非常に有効なテクニックの一つであると思います。おそらくこれに気付く時期は人それぞれで、早い人は小学校低学年くらい、いや、もっと早い人もいるかもしれません。僕はそれと比べると、気付くのがかなり遅かったと思います。

 

 しかし、これに気付いて、自分も生活を送る中でこのテクニックを使うようになってから、何かが損なわれていく感じを日々、受けるのです。

 正しいものを正しいと思えること。間違っているものを間違っていると思えること。それを確信を持って主張することが出来なくなってきているのだと思います。

 誰かを糾弾することは簡単だけど、それほど自分は清廉潔白か?論理的整合性は保たれているか?一貫性はあるか?そう思うと、目の前で起きている問題に対して何か判断を下そうとするのを躊躇うようになりました。まぁ、僕が判断を下して物事が運ぶことなど、今のところ皆無なのですが。

 

 ただ、この世界の真理というのもが、どこか深淵で神聖なところにあるというような考え方は、しなくなりつつあります。深いも浅いも、聖も俗も、その時々の人間が勝手に判断するだけのことで、この世界を説明できるものというのは、実はそこら辺に転がっているというか、もはや常に誰の目の前にも屹立とあるような気がするのです。

 こういうことを言うと「それって結局あなたの主観ですよね?」と言われるのですが、完全な客観というのも人間には出来ません。どんなデータであっても、それを見るのは人間だからです。データを何も考えず、何も感じず見ることは不可能だと僕は思います。だから、突き詰めていくと、世界の真理を知ろうとする際に、それが主観なのか客観なのか考えるのはあまり意味が無いと思います。よく、こういう話になってくると「悟りでもひらいたつもりか」などと揶揄されるのですが、僕個人としては、「せっかくこの世に生を受けたのだから、いっちょ悟りでもひらいてみっか、なんて思ってみてはどうでしょう?」このくらいは言っても許されるんじゃないかなー、なんて思ってます。